「幸福のアラビア」が伝えるもの~イエメン~
「幸福のアラビア」、、、現在のイエメン共和国が位置する南アラビアは、かつて「アラビア・フェリックス=幸福のアラビア」と呼ばれていた。
その名を与えたのは、当時のローマ人であり、彼らは、南アラビアを経由してもたらされる、インドの香辛料や中国のシルク、神秘的で怪しい香りを放つ乳香などを、、、富と幸福の象徴として珍重していた。
当時のローマ人は、それらのものが、すべて南アラビアから直接もたらされるものと信じていたし、険しい岩山と砂漠を越えた遥か彼方にある、その夢のような国に対し、果てしない憧れを抱いていた。
ローマ人たちは、己の暮らす社会が「十分に幸せ」であったがゆえに、、、
きっとこの広い世界には、もっと幸福で豊かな国や社会が存在するに違いない、、、
我々のように血や汗を流さずとも、絶対的な幸福が無条件で手に入る国、、、
険しい岩山と砂漠の彼方には、きっとそんな場所があるに違いない、、、そう考えたのだった。
「そこには、いつも暖かい太陽が降り注ぎ、木々には溢れんばかりの果物が実り、小川には葡萄酒が流れ、海辺の砂浜に寝転んで、白い砂に手をかざせば、こぼれ落ちる砂のあとに、大粒の真珠やダイヤが残るだろう!」
彼らの妄想は、その遥かなる、まだ見ぬ土地への憧れゆえに、あるいは、ローマ帝国のさらなる領地拡大の野望ゆえに、もしくは、自分たちが信じ続けてきた「幸福という階段」が、ある日突然、そこで終わってしまい、なだらかな下り坂となることを恐れ、おびえるが故に、、、
彼らの妄想は、どんどん膨張していく。
「山の彼方の空遠く、幸い棲むと人の言う」
アレクサンダー大王の遠征により、アラビアの地理について、多少の知識を持ち帰ったローマ人たちは、その憧れの地を、南アラビアに特定した!
すなわち、アラビアには、3つのエリアがあり、
1つは「石のアラビア(シリアなど)」
もう1つは「砂のアラビア(サウジなど)」
そして、最期に、その2つのアラビアを越えていくと、緑と富、神秘に満ちた「幸福のアラビア」に辿り着く、、、と!!
しかし、幸か不幸か、ローマ人たちは、「幸福のアラビア」に辿り着くことはなかった。彼らの帝国は、もっと足元にあった、「身近で現実的な問題」により、東西に分裂し、やがて滅亡した。
一方、「幸福のアラビア=現在のイエメン」は、慎ましく質素な暮らしぶりながらも、自らが「アラブの源流」であるという誇りを胸に、ゆっくりと時代を歩んでいった。
もちろん、この間に、イエメンでも多くの部族間戦争があり、数え切れない尊い血が流され、、、時には、ペルシャやエチオピアの侵略・支配も受けたが。
時は流れ、19世紀後半、他のアラブ諸国が、次々と油田を開拓し、産業構造の転換を図る中、なかなか石油が採掘されなかったイエメンは、、、気がつけば「アラブの最貧国」となっていた。
イエメンはたった独り、時代に取り残され、孤立した。
「幸福のアラビア」は、険しい岩山と砂漠を隔てた遥か彼方にあり、、、
でも、照る付ける夏の日差しは厳しくって、ありふれた果実が、適度に実っているだけで、、、
もちろん葡萄酒の小川もなく、砂浜にダイヤや真珠が転がっているはずもない。
欧米の地理学者や科学者の意見を聞くまでもなく、そのことは、明白だった。
もう「山の彼方の空遠く」には、誰も憧れを持たなくなった。
人々の憧れの地は、「幸福のアラビア」から「幸福のアメリカ」へと移って行ったのかも知れない。
しかし、そこに、イエメンの悲劇があり、喜劇がある。
「我、人と尋ね行きて涙さしぐみ、帰り来ぬ。」
それは、果たして、悲しい涙だったのか、それとも、嬉し泣きだったのか、、、
僕は、今回、そんな「幸福のアラビア:イエメン」に行ってみたくなったのだった。
追記:記憶で勝手に当て字してしまいましたが、文中の詩は正確には下記の通り。
「山のあなた」 カール・ブッセ 上田敏訳 『海潮音』より
山のあなたの空遠く「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
その名を与えたのは、当時のローマ人であり、彼らは、南アラビアを経由してもたらされる、インドの香辛料や中国のシルク、神秘的で怪しい香りを放つ乳香などを、、、富と幸福の象徴として珍重していた。
当時のローマ人は、それらのものが、すべて南アラビアから直接もたらされるものと信じていたし、険しい岩山と砂漠を越えた遥か彼方にある、その夢のような国に対し、果てしない憧れを抱いていた。
ローマ人たちは、己の暮らす社会が「十分に幸せ」であったがゆえに、、、
きっとこの広い世界には、もっと幸福で豊かな国や社会が存在するに違いない、、、
我々のように血や汗を流さずとも、絶対的な幸福が無条件で手に入る国、、、
険しい岩山と砂漠の彼方には、きっとそんな場所があるに違いない、、、そう考えたのだった。
「そこには、いつも暖かい太陽が降り注ぎ、木々には溢れんばかりの果物が実り、小川には葡萄酒が流れ、海辺の砂浜に寝転んで、白い砂に手をかざせば、こぼれ落ちる砂のあとに、大粒の真珠やダイヤが残るだろう!」
彼らの妄想は、その遥かなる、まだ見ぬ土地への憧れゆえに、あるいは、ローマ帝国のさらなる領地拡大の野望ゆえに、もしくは、自分たちが信じ続けてきた「幸福という階段」が、ある日突然、そこで終わってしまい、なだらかな下り坂となることを恐れ、おびえるが故に、、、
彼らの妄想は、どんどん膨張していく。
「山の彼方の空遠く、幸い棲むと人の言う」
アレクサンダー大王の遠征により、アラビアの地理について、多少の知識を持ち帰ったローマ人たちは、その憧れの地を、南アラビアに特定した!
すなわち、アラビアには、3つのエリアがあり、
1つは「石のアラビア(シリアなど)」
もう1つは「砂のアラビア(サウジなど)」
そして、最期に、その2つのアラビアを越えていくと、緑と富、神秘に満ちた「幸福のアラビア」に辿り着く、、、と!!
しかし、幸か不幸か、ローマ人たちは、「幸福のアラビア」に辿り着くことはなかった。彼らの帝国は、もっと足元にあった、「身近で現実的な問題」により、東西に分裂し、やがて滅亡した。
一方、「幸福のアラビア=現在のイエメン」は、慎ましく質素な暮らしぶりながらも、自らが「アラブの源流」であるという誇りを胸に、ゆっくりと時代を歩んでいった。
もちろん、この間に、イエメンでも多くの部族間戦争があり、数え切れない尊い血が流され、、、時には、ペルシャやエチオピアの侵略・支配も受けたが。
時は流れ、19世紀後半、他のアラブ諸国が、次々と油田を開拓し、産業構造の転換を図る中、なかなか石油が採掘されなかったイエメンは、、、気がつけば「アラブの最貧国」となっていた。
イエメンはたった独り、時代に取り残され、孤立した。
「幸福のアラビア」は、険しい岩山と砂漠を隔てた遥か彼方にあり、、、
でも、照る付ける夏の日差しは厳しくって、ありふれた果実が、適度に実っているだけで、、、
もちろん葡萄酒の小川もなく、砂浜にダイヤや真珠が転がっているはずもない。
欧米の地理学者や科学者の意見を聞くまでもなく、そのことは、明白だった。
もう「山の彼方の空遠く」には、誰も憧れを持たなくなった。
人々の憧れの地は、「幸福のアラビア」から「幸福のアメリカ」へと移って行ったのかも知れない。
しかし、そこに、イエメンの悲劇があり、喜劇がある。
「我、人と尋ね行きて涙さしぐみ、帰り来ぬ。」
それは、果たして、悲しい涙だったのか、それとも、嬉し泣きだったのか、、、
僕は、今回、そんな「幸福のアラビア:イエメン」に行ってみたくなったのだった。
追記:記憶で勝手に当て字してしまいましたが、文中の詩は正確には下記の通り。
「山のあなた」 カール・ブッセ 上田敏訳 『海潮音』より
山のあなたの空遠く「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く「幸(さいわい)」住むと人のいふ。